暗闇にある灯りというものは、なんとも不思議な魔力を秘めていると言えます。
やはり古代から人間が生きるために不可欠なものであり、
暗闇と灯りが同時に存在する空間というのは、
そんな野生的な、生命的な活動を彷彿とさせるからかもしれません。
そもそも、「光」が自然光による光を意味するのであれば、
人間が生み出す「灯り」が存在するには暗闇であることが大前提です。
暗闇に存在する光と聞いて、どんな風景を思い浮かべるでしょう。
街路にポツンと佇む街路灯、クリスマスのイルミネーション、
プロジェクションマッピング、マッチ売りの少女、誕生日ケーキに乗ったろうそく。
日中、人々が気づくや気づかぬや、あたりを当たり前に煌々と照らす光とはうって異なり、
「灯り」は、人々による明確な用途があって存在する。「用の光」ですね。
暗闇で灯りが灯る光景を思い起こすにつけ、そこに特別な物語性が感じられるのも、
人の手が、明確な意図がその裏に存在するからではないでしょうか。
「人」の存在を抜きにして「灯り」は存在しませんからね。
しかし昨今、その「灯り」の持つ「灯り性」が損なわれる場面も少なからずあるように思います。
均質で無機質でただっ広い明るさを持った空間があまりにも多く、
朝から晩まで煌々と蛍光灯で照らされた空間にいることが当たり前の生活において、
人の温もりを感じられるような灯り環境に人々は少し鈍感になっているとも言えるのではないでしょうか。
例えば、先述した誕生日ケーキにろうそくを灯し、部屋の灯りを消す瞬間。
そこには一気に得も言われぬ特別な空気感が漂う。
いる人たちみんなの内面を緩やかにつなぐような、不思議な空気が。
しかしどうでしょう。
ろうそくを消して部屋の照明をつけた途端、私たちは一気に現実世界に引き戻される。
ただろうそくを暗闇に灯し、消し、周囲を明るくしただけなのに、そこには夢と現をまたいだかのような不思議な感覚だけが残る。
マッチ売りの少女が売るのはマッチではなく、炎の奥に宿した夢。
あのマッチが蛍光灯に置き換わったとしたら、その物語性は果たして保たれるでしょうか。
それが、本来の「灯り」の持つ力なのです。
例えば、オフィスや教室を煌々と照らす蛍光灯、家の部屋を無機質に均質に照らす一灯型照明。
これらも確かにある特定の機能を持って人間が意図して設計した光であり、人のぬくもりが少しも介在しないとは言い難い。
むしろ、これらの光の方が私たちの現代の生活には慣れ親しんだ光とも言えるでしょう。
例えば勉強をする時、仕事をする時、資料や参考書が隅々まで照らされ、均一に視界に入ってくることはやはり機能的にも重要であり、
私たちが社会生活を送るに当たって必要不可欠な光でもあります。
しかし、それらの光が機能性以上に私たちに心理的に語りかけてくることはありません。
光と灯りの違いが人の手によって生み出されたか否かだけで判別されるとすれば、
やはりそこには個人的に違和感を感じざるを得ません。
「灯る」という言葉には、やはり灯りが持つ独特の神話性を孕んでいるように思えるのです。